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空気のような

 公園を歩きながら俺が好きだと言うと、彼女はあくびをした。まるで空気のような扱いだなと愚痴ると、でも人間には空気が必要だからと返ってきた。決して俺が空気のようであることを否定はしなかった。そんな、日曜。

2016/5/1 23:49

死に絶えるもの、残り続けるもの

 例えば誰がベートーヴェンのことを覚えているだろう。誰がシューベルトを覚えているだろう。誰もが知ってはいるが、彼ら自身のことを覚えているひとは既に死に絶えている。何年何月、どこどこで誰々の子として生まれ……、なんて話はどうでもいい。彼らの記憶は既に死に絶えたのだ。

 けれども誰もが知っている。それは作品が残り続けているからだ。

 

 死んでなお、賞賛されたり非難されたりするのはどんな気分だろう。まあ、死んどるから何も思わんわな。

 

 先日、ボウイが死んで大騒ぎになった訳だけど、なぜかキース・エマーソンが死んでも俺の周りでは取り立てて反応がない。まあ、週明け以降にあちこちで曲を聴いて、大いに残念に感じて欲しい。

 

 死んでなお、そこに作品があるから、誰かに知られるのだ。何百年も後に、誰かに知られるのだ。それこそが芸術の役割であり、それこそが人間の業なのだ。

 安らかならざる死したもの。ありがとう、君のおかげで俺たちは人類だ。

2016/3/13 00:25

 

Retweet: キース・エマーソンと竹宮惠子と、エドワード・サイードを衝動買いした。(2013年12月15日)

Retweet: #nowplaying キース・エマーソン - 地球を護る者(2013年1月20日)

Retweet: 『ゴジラ FINAL WARS』は怪獣オールスター出演なのも、戦隊やライダーみたいな特撮も、格闘技要素もみんな楽しいんだけど、けっきょくキース・エマーソンの音楽が全部持ってくのだ。(2015年5月5日)

Retweet: 動機は分からんが、とにかく無性に(これを衝動と呼ぶ)キース・エマーソンが聴きたい。(2015年6月11日)

Retweet: うそ、キース・エマーソン死んだん?(2016年3月12日)

Retweet: #nowplaying エマーソン・レイク&パーマー - タルカス(2016年3月12日)

 

 なんちゅーか、強い衝動とともに現われる不思議なひとだったよ。あんたは。


バタフライエフェクト

 昨日の俺と今日の俺が同一人物であるように、昨日の俺と今日の俺が違うように、車のリアがやけに揺れるからタイヤか車軸に問題があるのかと思ったら、昨日の蝶の羽ばたきが今日の春一番を生んだのだ。そうして俺は音楽や文学を愛して、明日は君に愛を告げよう。メリー・バレンタイン。

2016/2/13 22:34

始まらない終わらない物語

 生は3部作の2作目みたいなものだ。生まれたときには始まっていて、死ぬときにはまだ終わらない。

 始原の神のように生まれる根拠を持たず、物語に結末を与える英雄でもない。そんなちっぽけな存在が、しかし宇宙の一部として在る。このちっぽけな一個人を欠いて宇宙は存在し得ない。神代から続くDNAを受け取り、それを次へと繋げていく。始まりも終わりも、そのバトンを繋ぐ俺たちを欠いては存立し得ない。

 

 生まれることも、死ぬことも、思うようにならない。このどうしようもない俺たちこそ、大宇宙なのだ。メリー・クリスマス。

2015/12/23 21:24


T氏の幸福

 タテタ氏がライブハウスにクレジット出演するようになって昨日でちょうど8年が過ぎた。いまだにライブを続けていて、その回数が90回に届いた。10周年、100クレジットも間もなくだ。歌人なのに。

「こんなやつをいまだに呼んでくれるミュージシャン仲間や、ブッキングのおかげ。ありがとうございます。」

 

 ライブのあと、NAOKI KATOパイセン曰く、「タテタさんとかYukoさんみたいに、やることが決まっていて、それにチャレンジしているっていうひとは任せやすい。」

 イベントの日程が決まれば節季を確認して短歌を考え、イベントの趣旨に合った詩を選び、それらをオーディエンスに導入しやすい(そして作品を疎外しない)MCのタイミングと内容を決める。作品とMCでイベントの存在を強固にできるのが渡辺タテタのつよみだろう。少なくとも30分の中で持ち歌を5~6曲歌って帰っていくだけの対バンとは違うということだ。

 そこに違いがあるから行くのであって、同じことをやっている人間がいるなら渡辺タテタじゃなくてもいい。そういう役割を担えることが、俺の幸福だ。

2015/10/18 21:16

あらふぉー

 ときどき彼女からツムツムのハートが届いたりする。ちょっと空いた時間にパズルゲームはちょうどいい。

 家族もプレイしているらしいんだけど、曰く「おじさんが通勤電車でツムツムするのは恥ずかしいからやめてほしいんだよね。」なぜ、お父さんとはかくも虐げられねばならないのか。

 

「おじさんだからさ。」

 

 隣の席のパートの同僚とおぼしきおばちゃんたちが、新しいツムのスキル超ヤバいとかのたまっているのは恥ずかしくないのか。

 俺はディズニー大好きで、メガネもミッキー柄で、ディズニーショップで目がきらきらしちゃう訳だが、いつか娘にお父さん恥ずかしいからやめてと言われる日が来るのだろうか。なぜだ、お母さんはいいのに。

 

 公転周期によって刻まれるある一日が訪れて、なにかその瞬間が背後に近づいてきたような気がする。

 いいや、そのような蔑みに負けてはならない。悲しみを怒りに変えて、立てよアラフォー。ジーク・じ……

2015/10/04 03:08


Ils sont beaux.

 誰にも心を捕らえて放さない美しいものがあるだろう。俺にとってそれは「携帯端末のモニタ越しに見る階段」だった。

上段左から、生田緑地(岡本太郎美術館前)、下北沢駅(小田急地下)、下北沢駅(北口付近)

下段、六本木スーパー・デラックス

川崎ルフロン

2015/09/30 00:52

誰かがやるのを待ってないで自分で何かやってみるやつはマイノリティ

 安保闘争が上手くいかないのは先導している若者たちのせいではない。すべての主権者がその責任を負うものだ。

 しかし彼らが期待する大衆は、それに応えてはくれない。愚かだからではなく、怠惰だからだ。酒を飲みながら他人に不平不満を言う方が楽なのだ。大衆は先導されなければ何もしない。いつ、どこへ行って、何をしたらいいのか。手取足取りしなければ、何もしない。

 だから安保法案も成立しようがしよまいが、大衆は自ら動きはしない。また酒を飲みながら文句を言うだけだ。それを後に歴史が愚かな行いだったと定義する。


 結局、活動とは少数のものなのだ。何万人も集まって、大きなうねりに見えても、大衆は自らそこにいるのではない。連れられて来たのだ。本当の意味でそこにいるのは、ごく僅かなのだ。ボリシェヴィキを代表しているように考えていても、先頭に立っている本人たちはメンシェヴィキなのだ。

 

 「やりたいことがあるなら誰かがやるのを待ってないで自分でやってみよう。」なんて言っていた時代が俺にもあった。俺は集まった彼らの意見を代弁しているつもりだった。誰もやらなかった。

2015/09/18 01:15


洪水ルサンチマン

 洪水で死んだひとは何も惟わない。

 生き残ったひとのことは分からない。喜んでいるかもしれないし、悲しんでいるかもしれない。それは総体ではなく、個別の事象だ。

 いま命のあることを喜んでいるひとがやがて生活に困窮して、被災しなかった連中は怠惰に生き、自分はこんなに困難な生活をしているのだから、自分の方がより勇敢な生き方をしているとルサンチマンになるくらいなら死んでおいた方がよかったかもしれない。


 事物は他のものと比べなければそのものの状態を知り得ない。宇宙に事物がひとつなら、それは何もないのと同義だ。ひとが独りなら、それは誰でもない。比べて自身を知るなら、それは有意義なことだ。

 けれどもそこにあらゆる優劣はない。善悪もない。全宇宙に、あなたはたった独りの個体であるからだ。他と比較して自身の状態をより知るのならば、その知を自身の生活に反映するのみである。自分の持ちうるものを利用して、より自身を幸福にすることだけを考えればいい。

 比べて誰かを貶めたり、自分を慰めたりするのは愚者のすることだ。それは何と比較するべくもなく、唯一の存在である自分自身の属性を愚とするのみである。


 俺は特に健康上の問題で困難を抱えている。(もううんざりだ。笑)生活は困窮しているが、自分の持つものをただ上手くやりくりするだけだ。それは資産の範囲が他者と違うというだけで、方法論は同じだ。優劣も善悪もない。


 俺は幸福であるし、悩みを抱えてもいる。

 アフリカの子どもと比べなくても、あなたは幸福であり、また不幸でもある。それはあらゆる人間がそうであり、そして同一の幸福も不幸もない。すべては個別の事象だ。

2015/09/11 13:31

利き目

 新しい缶バッヂとキーホルダーを買ってご機嫌な勢いで、左目と右目で見たままの風景。

2015/08/30 01:22


It's my faith.

 手を合わせて頭を下げたら涙が出た。ぜんぶ重力のせいだ。

2015/06/21 19:03

アルヒユキノヒ

写真でしか見たことのない海岸で写メをアップロードする(すべて)誤解だ 渡辺タテタ

 

貼り出されたノーラカンスのニの行方この海とも繋がるどこかに

 

街灯は煌々として東京じゃ午前0時に魔法は解けない

 

逆鱗に触れられるほどそばにいていちばん強く抱きしめられる

 

蝉たちは東南向きの角部屋に抑圧されて泣き声ししし

 

君は神様が見せてくれた最後の夢だったのか立春の雪

2015/04/03 14:42


3月11日に日本人の俺が言いたいこと

 2010年にマグニチュード7の大地震と津波で30万人が亡くなったことに、驚きはしたけど、すぐに他人事になった。人類の悲しみを全部共感していたら頭がおかしくなる。2011年にも似たようなことがあった。似たような悲しみで片付けた。嘘つきでも気違いでもない。ごく平凡な今日だ。

 それはとてつもない不幸だけれど、もう地元に戻れない人にはそう明言すべきだ。核汚染された廃棄物を外部に持ち出すなどと、それこそありえない。それが地球のどこで起きようとも、封じ込める以外に解決策はない。一片たりとも福島から出しちゃいけない。それが理性だろ。もっとたくさん殺したいのか。


 夢とか希望とか目標とか奇跡とか、言葉遊びはどうでもいいからやれよ。だっておまえ、これからも生き続けるんだろ。

2015/03/11 16:04

J'ai rêvé au 20ème siècle

 俺は20世紀の最後の20年ばかりしか知らないが、かつてそこには帝国主義があり、世界大戦があり、冷戦があり、民族紛争があった。それでも世界中が民主化して、各人が自分の幸福を追求する権利を得れば、世界はずっともっとよくなるだろうと思っていた。ベルリンの壁が打ち壊されたとき、人々はそれを現実だと感じたはずだ。

 20世紀の終わりに、俺たちは夢を見ていた。


 さらにさかのぼった世紀、欧州各国で市民革命が終息すると、民衆の代表者たちは権力を手放すことを嫌った。あっちにいい顔をし、こっちにいい顔をし、とにかく多くの支持が必要だった。内政が上手くいかなくなると、彼らは民衆の目を外へ向けた。ナポレオン三世がいい例だ。困ったときは戦争をすればいい。内部ではなく外部に敵を作れば、ナショナリズムが高揚し、その瞬間に分裂していたはずの民衆がひとつになって戦い始める。

 神から与えられた自由かつ平等な権利を明示した民主憲法を持たない有色人種ならば、打ち倒すことになんの抵抗もない。民主憲法を持った帝国は、世界中で戦争をし、世界中の富を自国に集めた。だから英国の王侯貴族はいまだに資産が尽きない。現体制が維持されるうちになくなることなどないだろう。何億人ものひとたちから、百年かけて搾取した資産なのだから。

 やがて戦うべき敵が欧州国同士になり、世界大戦が起こり、面倒なことに核兵器が生み出された。


 人間が食物連鎖のヒエラルキーを逸脱して久しい。我々はほかの動物とは生存環境が異なる。人間は必要な食料を自然にではなく、自ら生産するようになっている。本来ならば自然界に存在しえない数の小麦や稲が実り、鶏・豚・牛が生息している。遺伝子操作などプロパガンダでしかない。異常繁殖をさせていることで、既に自然ではないのだ。そして地球がまかないきれる数をとうにオーバーした人間が生きている。

 自然によって淘汰されない人間は、放っておけば増え続け、自然の富を食らい尽す。だから戦争が必要だったのだ。人間は自分たちのグループが生息するのに必要な食料を得るために拡大し、やがてそれを奪い合った。生存のための戦争はとても自然なことで、それはほかの動物の縄張り争いと同じことだ。

 しかし帝国は他のグループの人間を殺して奪うのではなく、使役して富を奪った。そして核兵器が戦争を回避させるようになった。人口を調節できない人類は、20世紀末から爆発的に増加する。大規模な戦争がなくなったからだ。

 残念ながら飢餓は救えない。地球に救えないものを、その一部である人間に救えるはずがない。我々は淘汰されなければならない。いよいよ自然に帰るのだ。


 20世紀末に見た夢の話に戻ると、民主主義は世界を幸福にすると思っていた。しかし結果的にどうかといえば、いまのところそれは幻だった。民主主義は道具であり、それを使う人間が他者を幸福にしないのなら、不幸なひとはなくならない。

 世界各地で内戦が起こっている。小さな部族が、国から独立をしようとしている。彼らは自分たちの風習に従って、自然にそこで生きたいだけなのだ。しかし民主主義がそれを許さない。国家という大きな資産を自由に扱う権力を得た人間が、その富を縮小するような分裂を許すはずがない。そしてそれによって自分の幸福を実現している多数の人間が、選挙でそれを許すはずがない。(先の記事「テロの誕生と、三つ目の希望」でも書いたが、)マジョリティでいるためには、マイノリティを生み出すことが不可欠なのだ。生きるために牛を増やすように、マイノリティを飼い続けなければならない。独立など、民主主義は絶対に許さない。

 そしてやむなく少数部族は武器を手に取った。民主主義は、永遠に彼らを自由にはしないからだ。帝国主義時代の奴隷と同じように、絶対民主主義世界でのマイノリティは搾取され続ける。それが嫌なら、民主主義を打倒するしかない。


 いまでもカップヌードルのCMを思い出す。あのベルリンの壁につるはしを打ちおろすシーンを。ひとは自由になると思った。そうじゃなかった。

 久しぶりにイベント現場に出た一週間の終わりに、長風呂で体を休めながら思った。あれは本当に夢だったと。浴室思考。

2015/02/23 04:29


かえりみる

『猫』はギター演奏の都合上、指を切ることになるのだけれど、今回は治りがいたく遅い。水曜の夜にライブをして(正確には火曜のリハでカットしている)、もう丸二日以上過ぎているから、いつもならかさぶたで塞がっているころなのだけれども、まだ若干フレッシュな肉が見えている。それだけ渾身の猫だったのかもしれない。

 自分のライブを生で観ることはできないから、それがどんな猫だったのかは知りようがないし、評価もできない。誰かがまたあの作品を観たい(聴きたい)と言ったのなら、つまりそういうことだったのだろう。作品は発表されたとき、メディアによって、或いはライブで空間に解き放たれたときに、リリース(手放)されたのだ。もうそれはパブリックなもので、時空間を共有した誰もがそれについて自由に語ることができる。そして作家は著作権を主張することはできても、所有権はないのだ。それはチケットを買ってそこに集まったすべての人の「体験」という所有物だからだ。

 だから渡辺タテタを評価できるのは、ライブハウスで観たことがあるひとのみだ。そしてその評価にはマジョリティもマイノリティもない。そのひとだけの受取った感情があっていい。いい歌だと思ってもいいし、嫌ってもいい。天から光が降り注ぐかのように愛してもいいし、海の底深くに沈めて二度と思い出すことがなくてもいい。表現物を体験するというのは、限りなく自由なものだ。そこには一片の民主性も関与しえない。ただ自分自身だけで、それを受け取るのだ。

 かつて最大の批評家といえば、イコールして作家でもあった。作品の批判をして、じゃあ何がいいのかといえば、それを実作で示した。サロンでは議論が尽きない。彼の作品はああだこうだ、いや彼の作品のここは優れてる云々と批評し合い、そしてそれに作品で応える。弁証法的に止揚されて、激しい議論が作品を高め合うことになる。

 そういうスタンスは、文芸ではどちらかといえば当たり前で、思うにかつての芸術家は文学者でもあった。作品には文脈があり、絵画も彫刻も文学だったのだ。

 俺は批評も実作も、どちらをもやっている自負があるから、これからも物を言うし、詠っていく。人生に辞めるとか卒業がないように、詠うことも死ぬまで終わらない。

2015/02/21 02:37

繋がれているから、繋がれない

 トレーニングのあとに炭水化物を摂取すると、腕や脚に血液が駆け巡るのを感じる。沖縄そばが俺の体を喜ばせている。そしてラフテーが奥歯に挟まり、かえって俺の物言いからオブラートを奪い去って、ライブハウスのステージは旧時代的で退屈だ。

 舞台と客席の二面で構成され、壁にかかった絵画を見るのと変わらない。バンドマンが、「もっと近くに来て」と呼びかけていること自体が構造の限界を明示している。そこで生成される(ライブ)が、逆に時間に拘束されて、鑑賞者側に自由もない。

 作品を取り囲むこともできないし、作品に取り囲まれることもできない。そこには隔たりがあって、ひとつになんかなれない。

 それに耐えきれずにインスタレーションを作るようになったのなら、それもやむない。本当に作品と鑑賞者がメレンゲされるような、そういう合体がほしくなったのなら、シールドケーブルで繋がれたまま歌などうたえない。

 ライブはセックスだ。作品を挿入して、アーティストもオーディエンスもがともにイク。いまのままでは、あっちとこっちでオナニーしているだけだ。

 

 触れられる造形作品を作りたい。或いは俺の体の動きで発する空気の流れをオーディエンスが感じるほど近くでライブをしたい。それをしよう。

2015/02/08 14:51


テロの誕生と、三つ目の希望

  少年漫画雑誌には今日も戦争とおっぱいばかりが並んでいる。ほかにはなにもない。ザッツ・オール。きっとひとの命を救うような手立てがあるとすれば、コンビニの雑誌コーナーじゃない。誰かが諦めずに平和を志すのなら、それはもっと別の場所だろう。


 俺には俺の手足を広げた範囲の世界があって、そこに在る、触れられるものたちと生きている。地球の反対側の出来事と、フィクションには大差がない。竜巻の理由をバタフライにまで遡る必要もない。現実はとても小さくてシンプルなものだ。

 例えばモニタ画面がなくても、キーボードがなくても、俺は熱狂できる。自分の手足と反射神経で、タッチインターフェイスなどではなく、あまりにも動作を限定されたアナログなボタンを使って。そこにはロックスターも現れるし、未知の宇宙を探検することもできる。これが世界だ。

 かつて暴力と恐怖で行われた専制政治もあったが、それは21世紀の人類が直面しているテロリズムとは趣を異にする。現在のテロリズムは、民主主義によって生まれたものだ。

 過去の帝政では人間は平等ではなく、支配する者と支配される者がいた。搾取に理由などない。ただ強い者が弱い者から奪った。それだけのことだ。しかし民主主義では、それぞれに平等なチャンスが与えられる。そして多数派になった者は、少数の者から憲法の後ろ盾をもって搾取する。より多くの幸福のために、それよりも少ない幸福は優先度を下げられる。或いは社会全体の意志として諦められる。

 少数派に陥り、自分たちがどんなに声を上げても議会で多数派になり得ない彼らが、もし自分たちの意見を認めさせる方法があるとしたら? 民主憲法が彼らをその地位から脱却させない根源であるのなら、自分を幸せにするためにすべきは民主政治の打倒になる。こうしてテロリストたちは生まれた。

 もし多数派のひとたちが少しでも少数派の意見を汲んでいたのなら、より多くの幸福を達成した上で、少数の幸福をも達成しようと彼らと話し合うことをしたのなら、こんなことにはならなかったかもしれない。しかし多数派の人間は、自分たちの幸福にしがみつき、それを安定して継続するために少数派を必要とする。常に自分たちが優位に立ち、自分たちの意見が憲法によって正当化されるためには、マイノリティがいてくれなければ困るのだ。そこにマイノリティがいなければ、生み出してでもそれを実行する。それがファシズムという事例だ。

 ひとは知らずしらずに場の空気を読み、その大きな流れから逸脱しないように振舞う。それはマイノリティにされないためだ。いちど貶められたら最後、永遠にスケープゴートにされてしまう。

 少しでも多くの幸福を生むための知恵として、民主主義は考案された。けれども全員が幸せになることは100%あり得ないのも、また民主主義の本質だ。全員の意見が一致したときには、ファシズムを疑わなければならない。必ず誰かがスケープゴートにされているはずだ。

(少数派の問題を解決するために分裂紛争が起きているのであり、或いは小さな政府・自治の拡大という議論がある。なにも放置されたままという訳ではない。)

 

 命は民主的に存在してはいない。完全個人主義的に存在している。生きるということには民主性の欠片もない。だからもし生まれてきたのならば、最も大きな責任は他者にではなく自分自身に対して持つことになる。それは自分自身を幸せにするという責任だ。

 けれどもひとはひとりでは生きていけない。ひとりで幸せになるということはない。ヒトは人間であるからだ。他者と関わって、幸せになる。概念の上では、世界は手足を広げてもとても届かないところまで拡張している。

 手足の届かない誰かを救うためには、どうしたらいいのだろう。それは想像の力に頼ることだ。目の前にあるボタンやターゲットがスペクタクルを生むように、想像力で他者を思い遣るのだ。

 

 いま我々を救う手だてがあるとするならば、この命の自由でもなく、民主政治による平等でもない。最後の希望は、博愛だ。イエスに倣って、赦すのだ。

2015/02/08 02:36

愛について、及び我々が人間であることについて

 誰かのことを好きになったとしよう。するともっとそばにいたいと思うようになる。もっと近くで、もっと長い時間を一緒に過ごして、相手のことをもっと知りたいと願う。恋とは、知的欲求である。

 その欲求を満たすためには、相手が健康な状態で維持されなければならない。外部の危害から守られなければならない。自分の命を投げ出してでも、そのひとを守ろうとする。おおよそ、愛と呼ばれる。

 

 何かのことを好きになったとしよう。もっと近くでそれを見て、もっと知りたいと願うだろう。そしてその知を得るに足る時間が過ぎるまで、そのものは失われてはならない。守り通さなければならない。それは愛だろう。

 

 俺はF1が好きだ。F1が守られて、2015年も在ることに心の底から安堵している。それは俺が愛して止まない芸術的要素を持っているからだ。

 F1という興業には多くの金が費やされる。それによって多くの人が賃金を得ている。それは間違いないが、しかし車を作ること、速く走らせることの純粋さにはなんの関わりもないことだ。

 マシン下部の整流板を見て、どれほど多くの人が心を揺さぶられるだろう。このマシンの陰の、文字通り黒子に徹している炭素繊維の板こそ、情熱の証だ。ただ純粋に世界で一番速く走るためだけに、知恵と技術の粋を集めたのが、この黒い板なのだ。

 こんなことをする生命は、動物は、ほ乳類は、どんなに知恵のある類人猿もイルカも、人間をおいてほかにはいない。ただ人間だけが、これを求めるのだ。空腹が満たされる訳でもなく、体を温める衣類になる訳でもなく、雨風を凌いで安全に眠れる住居でもない。これは走る以外には何もできない。それを愛して止まないのだ。

 これこそが我々が人間であることの証明である。ほかのどの動物とも違うということを、例え現在の地球上の主だった生命が絶滅しようとも、あらたな知的生命体がこれを発見したときに認めるのである。これを作った動物は、ほかのどんなサルとも違うと。

 

 走れ、ホンダよ。俺が人間でいるために、我々が人類で在るために。

2015/01/11 03:11